魚釣りが上手なら、いつでも美味しい魚が食べられる?
この記事ではエサから探す魚釣りを紹介します。
拾ったセミでどうにか食べ物にありつこうとするもくろみです。
なおこの記事は動画版もあります。
もくじ
魚釣りをしようと思い立ち、魚のエサを探す

この日、筆者が思い立ったのは夕食のための魚釣りです。
魚釣りそれ自体も楽しいのでしょうが、筆者はあまり適性がないようで、魚釣り自体を楽しむという域にはまだ到達していません。
とりあえず今夜の食材を得ようと目論んだのです。
では釣り餌をどうするか?
何か身近なものをエサにできないだろうか?
有名なことわざに「エビでタイを釣る」というものがありますが、筆者がこの手の錬金術を会得したならば、家計も少しは楽になろうかと夢見たのです。
空蝉を見て閃く

筆者は道端で空蝉を見つけ、特に考えもなく拾ってきたことがありました。
これだ、これ食えるんじゃないか?
エサはセミでいこう。
それはあたかも天啓のように筆者の脳裏に突如として去来した電撃でありました。
己のひらめきに撃たれ脳髄のみならず常識すらも痺れてしまった筆者は、セミをエサに魚を釣るという奇行がおそろしく素晴らしいものに思われたのです。
「この方法なら、セミを捕まえるごとに魚が手に入るようになるぞ!」
なぜこの思い付きを信じたのか。それは宝くじを買うときの願うような気持ちと同じでした。
つまりこう考えていたのです。「もしもこれが当たったら!」
セミの入手

セミは落ちている。
木にとまっているセミを捕まえなくても、セミなんてそのへんに転がっています。
動きの鈍い筆者であっても、やすやすと入手できるのです。
セミの抜け殻を見ると、中身は飛んで行ってしまったんだなと思います。
そしてやっぱり成虫のセミの死体を見ても、中身(タマシイ)は飛んで行ってしまったのではないかと思えてしまうのです。
幾度も殻を脱ぎながら高い所へ昇っていったセミたち。生き物たちの目指すところはやはり天なのかもしれないと神妙な心持ちになりました。
そうして筆者もまた、生き物であることに違いないのです。
いざ海へ

さて翌日。
セミを針にかけ、釣り竿を振ると、エサとなったセミたちは海面を縦横無尽に踊るのでした。
ちょっとここで史記の話をします。
むかし周という国の文王が狩りに出かけたところ、渭水という川のほとりで釣りをしているおじさんと出会いました。
この釣りおじさんは文王のパパが「こういう家来がおったらなー」と思っていた通りの人物で、太公望(太公ってパパや祖父のこと)と言われました。
という、釣りに関する有名なお話があります。
筆者もしばらく釣りをしていると、王に召し出されて軍師として紂王と戦うことになるのかもしれないなと考えていました。
筆者、魚釣りしてたら文王と出会う

すみません。文王じゃなくて、釣り人たちと出会いました。
他にも釣りに来ている人々がいて、釣り人の連帯感のようなものが現場にはあったのです。
目的を同じくする人同士は打ち解けやすいのかもしれません。
それで世間話したり、アドバイスとか色々ともらっちゃいまして、
「エサ変えたほうがいいんじゃないの?」
という、至極もっともなご指摘をいただいてしまいました。
こんなこともあろうかと、太公望は二重、三重、周到に準備していたのです。
我が君、それがしに策がありますゆえ、どうかご心配なさらぬよう。
筆者、おやつにチクワを用意していた

お腹が減ったら食べようと持ってきていたチクワ。
このチクワはもしもの時に、魚のエサに転用できるのではないかと考えていました。
それでチクワをエサにして、しばらく糸を垂らしてみたのです。
しかし、結果は変わらず。
ナシのつぶてでございます。
やさしいおじさんが獲物をくれる

他の釣り人たちはよく釣るんですが、筆者だけはまったく釣れません。
獲物の無い筆者を憐れんで、おじさんがカニをくれました。
やっぱり魚釣りをする人は優しいなあ。
カニはおいしくいただきました。
